薄 国彦さんの声

写真:薄 国彦さん

福岡の伝統芸能「博多仁和加」を第一人者として継承し続け、過去の東南アジア等での農業指導を生かして、現在自作米を地域の小学校の子どもたちと一緒に作り続けているなど、幅広く活躍中の薄さん。毎日の生活、人生を楽しむエッセンスをお伺いしました。


人生を楽しむこと-それは人との会話

「博多仁和加」にずっと携わっているそうですが、具体的にどのようなことをされているのですか?

写真:博多にわかの本
約800年前、福岡黒田藩の時代に生まれた「博多仁和加」。1年に1度だけ、町の人たちがにわか面をかぶり、政治に対して面白おかしく風刺していいという日があり、その日はお祭りのように盛り上がっていたそうです。

「にわか」は言葉遊びみたいなもので、時事的な事柄をユーモア交えて言葉を掛け合わせ、風刺的なジョークにするものなんです。「博多仁和加」は郷土芸能で、福岡市の無形文化財に登録されています。そこの振興会の顧問をずっと務めてきて、全国各地で高座を行ってきました。フィリピンや韓国、東南アジアなど外国にも行ったことがありますよ。にわかは落語に近く、即席で言葉を考えなければいけません。博多弁をどう面白く掛け合わせて使うか…日々、頭の中が楽しい言葉であふれているんですよ。毎日の人との会話もにわか状態ですね(笑)。それで周りの方が笑っていただけると、とても嬉しいですね。言葉は楽しく使うのが一番! 人との楽しい会話が生きがいになっています。

子どもたちの目の輝きを見るのが楽しい

以前、政府からの依頼で東南アジアへ農業指導に行かれていたそうですね。
その豊富なご経験をお聞かせください。

写真:薄 国彦さん

現在は、地域の小学校の子どもたちに有機栽培、減農薬のオリジナル米の作り方を教えています。自然にあまり触れたことがない子どもたちが、目を輝かせて米作りに取り組んでいる姿を見られるのは嬉しいですね。私は戦前、関東で航空会社の整備員をやっていたのですが、兄の戦死により帰郷し、農業ひとすじの人生を送ってきました。1970年代には東南アジアに農業指導に行ったり、農業留学生を受け入れたり…今でも交流があるんですよ。

補聴器はメガネと一緒。アクセサリーじゃない

補聴器をつけられたきっかけは?
つけられた後はどのように生活が変化しましたか?

写真:薄 国彦さん

それから、毎日外に出て農業にいそしんでいたのですが、農業はかなり体力のいる仕事。年を経るとどうしても体の調子が悪くなっていき、同時に少しずつ、耳の具合も悪くなっていきました。それで、病院に10年通ったんですが、良くなったり、悪くなったり、の繰り返しで、治療法も薬だけでした。その時は「仕方ない」とイライラするだけで自覚症状があまりなかったんですね。でもある日、子どもたちから「聴こえないの?」と指摘の言葉があったんです。そこで、補聴器をつける決心をしました。でも最初は面倒で、つけたり、外したり、の繰り返し。「聴きたい時だけつければいいや」ぐらいにしか思っていなくって…。でも、その間、補聴器も改良が進み、自分の耳にぴったりフィットする小型のものが登場し、それをつけたら格段に生活が快適になりました。「なんでつけたり外したりしていたんだろう。補聴器はメガネと一緒と思えばいいんだ」と思えるようになり、今では寝る時だけ外しています。身体の一部の補聴器も寝かせてあげなきゃって(笑)。補聴器は身体の一部で日常のもの。タンスにしまっておくアクセサリーじゃないんですね。

自分の持っているものを人に伝え、人から学ぶのが喜び

今は快適で充実した生活を送られているとのこと。
これからの夢を教えてください。

写真:「博多仁和加」のDVD
地域の小学校の催し物で、子どもたちに「博多仁和加」の劇を教えている薄さん。なんとDVDにもなっています。

聴こえなくなって初めてわかったのは、聴こえることの素晴らしさです。今までいろんな人に支えられ、励まし合い生きてきました。その人たちと会話ができなくなる、そんな淋しいことはありません。人生を楽しく、面白く生きるのはやっぱり人。コミュニケーションはとても大事ですね。その上で、「聴き、自分の想いを伝える」ということはとても大事です。私はにわかや米づくりなど、自分の持っているものを人にどんどん伝えていきたいですね。その代わり、人から学ぶこともたくさん。人のために生きれば、いろいろ得るものがあります。人と共に前向きに生きること、これが人生の楽しみじゃないでしょうか。